処女《お と め》は|お姉さま《 ボ ク 》に恋してる 櫻の園のエトワール 嵩夜あや ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)基督《キリスト》教礼拝 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)|エルダー・シスター《一 番 上 の お 姉 さ ま》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#改ページ] ------------------------------------------------------- [#改ページ]  少し控えめな日差しが桜並木を縫って湿った石畳を優しく照らしている。  昨夜の雨に濡れた桜の若葉が雫をきらきらと光らせながら、鮮やかな緑色を透かして揺れている……校舎までの短い桜並木に、少女達の黄色い笑い声と軽い靴音が弾むように響いている。  その光景は、とても清純で美しく、清々しい。  ここは、恵泉女学院——。  明治十九年に創設された由緒ある女学院。日本の近代化にあわせ、女性にもふさわしい教養を学ぶ場が必要だ、という理念に基づいて創立される。英国のパブリックスクールを原型として、基督教的なシステムを取り入れた教育様式は現在まで連綿と受け継がれている、いわゆる『お嬢さま学校』である。戦後再建時に幼稚園から女子短期大学までの一貫教育施設となるが、その基本的なスタイルは現在も変わらない。  モットーは慈悲と寛容。年間行事には奉仕活動や基督《キリスト》教礼拝など、宗教色も色濃い。それに加えて日本的な礼節・情緒教育も行われているため、普通の義務教育機関とはいささか趣が異なる点が多い。  生徒の自主性を尊重するため服装規定等校則もゆるいが、徹底した情操教育によるものか、生徒内自治がある程度効果を上げており、大幅な校則違反はほぼ見受けられることはない。それだけに、若干世間から隔絶した感もある。  あの錚々《そうそう》たるメンバーを送り出した春から、早八ヶ月。  並木の桜たちも、浮ついた気持ちはそろそろ終わりと生徒たちを戒めるように、優しく静かに葉を散らせ始める晩秋。  昨年度エルダー・宮小路瑞穂《みやのこうじみずほ》を筆頭に、十条紫苑《じゅうじょうしおん》、厳島貴子《いつくしまたかこ》、御門《み かど》まりや……第百九期メンバーが卒業し、恵泉女学院も燈も消えたような寂しさに包まれて……?  いいえ、そんなことはありません。  小さい芽かも知れないけれど、そこにはまた、可憐で美しい花を咲かせようとする蕾たちが。  新しい出逢いと別れを繰り返して、少女たちは成長し……そして大人になってゆくのだから。  見えるでしょう? 櫻の園の中で小さな輝きを放つ、おぼろげな光たちが。  不安と希望に揺れる———櫻の園の、エトワール。 [#改ページ]    会議は踊る・秋の胸騒ぎ 「おはようございます!」 「おはようございます、お姉さま!」  冬晴れの空の下、朽ち葉の桜並木には……それでも爽やかな乙女たちの清麗な声が谺《こだま》している。 「ええ、おはようございます……今日も良い天気ですね」  その中で一際、乙女たちの視線を一身に受ける少女の姿があった。  たおやかな黒髪には緩やかなウエーブが掛かり、その黒い瞳には理性的でありながらも、優しげな光が宿っている。 「おはようございます……かぐやの君」  そう云われて振り返るのは、今年度のエルダーにして生徒会長、菅原《すがわら》君枝《きみえ 》その人である。 「……お、おはようございます。葉子さん……ねえ、その二つ名は恥ずかしいからやめて頂けませんか?」  声を掛けたのは、二年連続で生徒会副会長を務める門倉《かどくら》葉子《ようこ 》だ。 「どうして? せっかく評判を博した生徒会劇『かぐや姫』から付いた名誉ある二つ名だっていうのに」  君枝は表情を変えずにからかいを入れてくる葉子に、困ったような視線を向けると、直ぐに二人並んで歩き出した。 「……エルダーに選ばれた時は、私に二つ名なんて絶対に縁はないだろうって……そう思っていたのに。だいたい、葉子さんだって『帝の君』って呼ばれるの、嫌がっていたじゃないですか……」  双方共に、学院祭の生徒会劇の役名がそのまま付けられた二つ名だった。君枝は「かぐや姫」、そして葉子は「帝」……そんなはまり役で劇は大成功。そして、二人には役名そのままの栄誉有る二つ名が定着したのだった。 「私はいいのよ……ただの副会長なんだから。でも、君枝は会長である前に『エルダー』なのだから。二つ名くらいは甘んじて受けないとね」 「……はあ、そう云うだろうとは思っていましたけれど」  君枝の性格的に、本来自分が目立つような行動は忌避しようとするのが当然ではあるのだが、こと立場がエルダーともなればそうも云っては居られない。そして君枝は、敬愛する貴子にその意志を託された以上、そこから逃げることなど……これまた彼女自身の性格が許さなかった。  結果的に君枝は、周囲の助言やサポートに助けられながら、真実「エルダー」としての度量と、器量を手に入れつつあった。 「まあ、私も君枝がそんなに頑張るとは思ってなかったから……嬉しい誤算だったわね、そこは」 「だ、だって……まさか私、貴子さまやまりやさまが卒業後までお手伝いして下さるなんて、思ってもみなかったんですもの」  貴子の談によると、まりやは君枝に光るものを見出したらしく、卒業後も良く貴子を引き連れて学院に足を運んでは、君枝に化粧やヘアケア、スキンケアに関するハウツーを叩きこんでいった。 「ああ。でもあれはどうも…本音はあなたと一緒に貴子さまも鍛えるのが目的だったらしいわよ?」 「えっ……そ、そうなの……?」 「まりやさまが貴子さまのセンスを見るに見兼ねて……君枝さんを教える振りをして、付いてきた貴子さまも一緒に鍛えていたらしいわね」  葉子にそう云われて、君枝はその時の様子を思い浮かべていた。 「そ……そう云えば、私よりも貴子さまの方が沢山怒られていて……あれはお二人の性格的な部分がそうさせているのかと思っていたのだけれど……そう云うことだったのね……」  貴子が瑞穂との初デートに、私服と云って豪奢《ごうしゃ》なロングドレスを着て現れたことは、今年の生徒会の間では伝説的な語り草になっていたから、その話を聞かされて君枝も素直に納得した。 「まりやさまの性格的に、貴子さまの為だけに教える……というのは恥ずかしくて嫌だったのでしょうね……ふふっ、変なところで素直じゃない人よね。まりやさまは」  そう葉子は分析しながら、愉快そうに笑った。 「それにしても……本当に君枝は綺麗になったわね」 「えっ……そ、そうかしら?……そんなことは……」  元々几帳面で生真面目な君枝のことだ。やり方さえ判ってしまえば、毎日のケアだろうと欠かすはずもない。君枝の化粧はみるみる効果を上げ始めた。そばかすもすっかり消えた今では、その美貌と玉の肌……そして流れる黒髪は学院の憧れと呼ばれるに相応しいものとなっていた。 「だめですよぉ副会長、会長を誘惑しちゃぁ〜」 「……可奈子」  肩口までのウェーブヘアをぴょこぴょこと揺らしながら、後ろから二人の前に回り込む元気いっぱいの少女。二年連続で生徒会書記を務める烏橘《う きつ》可奈子《かなこ》だ。 「おはよう、可奈子さん」 「おっはようございまぁ〜す。会長、今日も綺麗〜」 「あ……ありがとう、可奈子さん……」  二年生になっても、彼女の独特の会話ペースは健在で、葉子からはいい加減にその喋り方をやめるようにと云われているのだが、本人は全くそしらぬ顔である。 「そうそう、今日は確か、放課後は会議でしたよね〜?」 「ええ、そろそろ次期生徒会の人選を進めないとね」 「早いものね……もうそんな時期なんだ」  葉子の声には、珍しく感慨が籠もっている。 「あまりに目まぐるしかったから……色々なことがあったのに、本当にあっという間でしたね」 「そうね……あら、もうチャイムの鳴る時間ね。急ぎましょう君枝、可奈子」  葉子の声に急かされて、少しだけ歩くペースを速くする。恵泉の生徒たるもの、スカートを翻して走り回る訳にはいかないのだから……。 「おっはようございま〜す!」  元気な挨拶と共に自分のクラスに飛び込んだ可奈子は、自分の机に鞄を放ると、くるりとその場でターンすると窓際の方を向いた。 「おはよう。それにしても、可奈子はいっつも朝からテンション高いわよね……」 「ふふっ……おはようございます、可奈子さん」  最初に挨拶を返したのがクラスメイトの上岡《かみおか》由佳里《ゆかり》、そしてその後に続いたのが周防院《す お ういん》奏《かな》。この三人は、2−Cの有名人トリオと云われている。  可奈子は無論、一年生の頃から生徒会に参加している俊秀として。  奏は、二年生にして演劇部の副部長であり、その上演出と演技指導を部長と共に担当し、今年の学院祭では去年に引き続きヒロイン役を熱演、見た者を涙と感動の渦に叩きこんだ張本人である。その時の役名と、抜けるような白い肌の色を掛けて「白菊《しらぎく》の君」の異名で呼ばれるようになった。  そして由佳里は、二年になった早々三年生の部長と意見を対立させた後、自らが部長に就任。二年生にして陸上部を引っ張る立場となった。  これは「陸上部事変」として語り継がれることになり、その後よく一緒に行動していた奏の対極として、由佳里はその陽に灼けた肌の色から、「琥珀《こ はく》の君」として知られるようになったのだった。それと共に料理の腕前の話なども拡がり、異彩の運動少女としてその校内に於ける人気を不動のものとしたのだった。 「そうそう、二人にちょっとお願いがあって〜」  挨拶も済まないうちに可奈子は奏たちに次の話題を切り出す。まあ、奏たち二人にしてみればもう慣れっこなので、可奈子の方に向き直って話の続きを待った。 「今日の放課後、生徒会室でちょっとした会議があるんだけどぉ……良かったら二人とも、ちょぉっと手伝ってくれないかなあ〜って」  可奈子はそう切り出すといつものニコニコ顔で笑う。二人が断るなんて、おくびにも思っていないと云う顔だ。 「私は別に構いませんけれど……由佳里ちゃんには陸上部の練習があるんじゃありませんか?」  奏がそう云って由佳里の方を見る。由佳里は小さく肩を竦めると、笑って可奈子の方を見る。 「確かに練習があるんだけど……可奈子がこういうお願い事をする時ってさ、なぜか必ず強制的に出席させられるんだよね、大体はさ」  すると可奈子は、不服そうに頬をふくらませる。 「あ〜、ひっどいなあ……私ってば無理に頼んだことなんて一度もないのになぁ」  確かにそうなのだ。だが可奈子が頼み事をした途端、何故かもう一方の用事が急にキャンセルになったり、その用事が片づいてしまっていたりするのだった。 「まあ良いよ。で、その会議って…何をするのよ?」 「それはぁ……出席してのお楽しみってことでぇ……」  由佳里の質問に、可奈子は楽しそうに微笑んだ………。 「気にならない、と云ったら嘘よね」  昼休み、食堂に集まった四人は各々の大好きなメニューを携えて、いつもの席に座っている。 「まあ、この時期ですから……次期生徒会のメンバー選出に関わることなのではないか……とは、薄々推測しては居ましたけれど……」  由佳里の問題提議に奏が答える。そして、その横でパスタを頬張っていた背の高く——百七十センチはあるだろうか——長い髪の少女が、少しワイルドな感じのする切れ長の瞳を由佳里に向けた。 「でも、そんな生徒会の会議にどうして由佳里さんと奏お姉さまが呼ばれるんです?」  彼女は七々原《な な はら》薫子《かおるこ》。今年新しく寮に入った一年生。外部からの転入生で未だ言葉遣いが蓮葉なところがある。  彼女は寮内に於ける奏の「妹」で、由佳里達からは「逆転姉妹」と呼ばれている。夜になると何故か奏が薫子の部屋にお茶を流れに行くという……そんな姉妹なのだ。 「だーかーら、学院に居る時はあたしにも『お姉さま』って付けろって云ってるじゃないの……ホント、癖が抜けないわね薫子は」 「すみません、裏表の無い性格なもので……あはは」  能転気な由佳里と薫子の遣り取りに、由佳里の隣に座っていた女の子がおずおずと口を挟む。 「えっと……本題から大分ずれてしまっているのですけれど……それで、どうしてお姉さま方はその会議に呼ばれているのですか?」  彼女は皆瀬《みなせ 》初音《はつね 》。やはり今年から寮に入った一年生だが、こちらは幼等部からずっと恵泉育ちである生粋のお嬢様。両親が転勤することになったのだが、温室育ちの娘を余所の一般の高校には通わせられない……という理由でそのまま恵泉の寮に入れられることになった。  こちらは由佳里の「妹」で、少し甘えん坊な「お姉ちゃんっ子」の感じがある。 「それはね……現生徒会が、私か由佳里ちゃんのどちらかを……生徒会長に指名しようと考えているのではないか……っていうことなのよ」 「そ……それ本当なの!? 奏お姉さま!」  奏の言葉に繁く薫子。初音も同様だ……その言葉に由佳里の方を見詰めている。 「ま、あれよね……可奈子と一緒のクラスになったのがまずかったと云えばまずかった……」  由佳里は過去を思い出すかのように腕を組んで、考え込む振りをした。 「まあ……可奈子さんにしても悪気がある訳ではないのですから……」 「……当たり前よ。あれで悪意があったら史上最悪の策謀家になれるって、あの子」  可奈子と一緒のクラスになって以来、二人は何かと可奈子の頼まれごとに関わっていた。大抵それは生徒会がらみの仕事で、今考えてみると、それらが全部役員候補への布石になっていることは明らかだった。  姉たちの会話を聞きながら、薫子と初音はお互いの姉の顔を覗き込む。 「でも奏お姉さま……由佳里お姉さまもそうだけど、二人とも部活があるんだし……生徒会になんて関わってる暇は無いんじゃありません?」 「そ、そうですよ……お二人とも部長と副部長なんですし」  薫子の直球な意見に、初音が控えめに援護射撃をする。 「まあ、それは私たちも解っているのよ初音。でも、この場合は私たちがどうしたいか……と云うことが問題になるのではないのよ」 「そうですね……指名して頂けることは名誉だとも思うのですが、私たちにもやりたいことは有りますからね。演劇部を辞めてまで生徒会に入ろうとは思いませんし」 「そうよねえ……」  取り敢えず、四人で悩んでいてもこの問題が解決しよう筈もないので、冷める前に昼食を済ませることにした。 「さて、皆さんをお呼びしたのは他でもありません……来年の生徒会メンバーとして、ご参加頂けないかをお伺いする為です」  ———放課後。  職員用の会議室——その議長席に座った生徒会長・菅原君枝の口から、暖かみのある……けれどはっきりとした強い口調が室内に響き渡った。 「本来、生徒会の活動は生徒自身の意志によって進んで行われるものであり、押しつけられて行うものではありません……ですがその業務の性質上、何らかの適正な資格や能力が求められるのです。本日は私どもがそれを認め、相応しいと思われる方を集めさせて頂きました」  副会長の葉子が君枝の言葉を引き継ぐと、集会の趣旨を簡潔に説明した。  その場に集められたのは一年生、二年生合わせて十五人ほど……その中には奏や由佳里も当然として、何故か薫子と初音の姿があり、姉二人は内心で驚きを隠せなかった。  しかもその集められたメンバーを見る限り、既に部活動や委員会で活動している人間がほとんどであり……それはつまり、決定は一筋縄ではいかないことを暗示している。 「……君枝会長、質問があります」  本筋であろう話し合いが始まる前に、由佳里が挙手して会長に話しかけた。 「なんでしょう、上岡さん」 「その、ここに選ばれたっていうのは……一体どういった基準で?」  不信感たっぷりの由佳里の表情に、君枝は思わず顔を綻《ほころ》ばせると、口を開いた。 「先ほど副会長が説明しましたように……適正な資格、例えば優れた事務処理能力を持っている方や計画処理能力を持っていらっしゃる方々。そして、生徒会を運営して行くに相応しい……そう、統率力を持っていらっしゃる方———」  その言葉と同時に、君枝は由佳里を見て微笑む。 「そう、例えば……二年生にして陸上部の体制を刷新し、そのリーダーになった上岡由佳里さん、貴女のような」 「な………!?」 「そしてご自分の敬愛するお姉さまの為に、決闘も辞さなかった正義感の持ち主……七々原薫子さん、貴女のような」 「ええっ……あ、あたしっ!?」  突然自分の名前を呼ばれ、後ろの席で様子を見守っていた薫子も立ち上がって声を上げた。 「恵泉女学院生徒会は……その伝統も引き継ぎながら、常に新しい風を吹き込んで行かねばなりません……OGのお姉さま方に、つまらない学校になったと云われぬ為にも……ね」  そうして君枝は、優しい笑顔で集められた者達を見回していた———。 [#改ページ]    いと小さき、君の為に 「はっ、はっ、はっ、はっ……」  春、桜の花が散って青葉の揺らぐ並木道に、二つの足音が響いていた。 「大丈夫? 初音……少しペース落とそうか」 「い、いえっ……も、もう少しがんばりますから…っ………」  二人の影は石畳を横断すると、そのままジョギングコースへと入って行く——。 「はぁっ、はぁっ、はぁっ……」  校庭の隅に仰向けに倒れ、大きく胸を上下させて苦しそうに呼吸する……そんな初音の傍らに、由佳里は屈み込んだ。 「大丈夫? 無理はしなくて良いのよ」  心配そうに覗き込む由佳里に、初音は苦しそうな表情に、微かな笑顔を加えて見せた。 「はぁ、はぁ……私、いままで運動ほとんどしていなかったから……罰が当たってるんだと思います……」 「あら初音ったら……運動って云うのは義務でするものじゃないのよ?」 「ふふっ……そうですね……」  五月……寮での妹になった初音は、由佳里に「自分も陸上部に入りたい」と云った。  由佳里としては反対する理由もなかったので快く迎え入れたが、初音は学校の授業以外では全く運動の経験が無く、そんな初音を必然的に由佳里は面倒を見ることになった。 「でも……初音がこんなに頑張るなんて思っても見なかったな……もっとすぐに音を上げると思ってた」  由佳里は、初音の額に汗でへばりついた髪を整えてやりながら、楽しそうに微笑んだ。  当初、初音のあまりの足の遅さと体力のなさに辟易《へきえき》し掛けた由佳里だったのだが、一生懸命に努力しようとする初音の一途さに打たれ、今ではこの健気な妹の面倒を見るのが楽しくて仕方がなくなっていた。 「あ、ああの……くすぐったいです、由佳里お姉さま……?」 「え? あ、ああっ!? ご、ごめん!」  髪を整えてやっていたつもりが、考え事をしているうちにいつの間にか初音の頬を撫でてしまっている自分に気付いて、あわてて手を引っ込めた。  きょとんとして見詰め返す初音を、由佳里は女の子ながら可愛いな……と思ってしまう。  自分にはない、女の子らしい部分を詰め込んだ子……由佳里は初音を見るたびにそう思う。  白い肌に綺麗な淡い菫色の瞳、内気な性格とか細い声……まるで硝子のように輝く、波打つ綺麗な髪……どうして自分はこんな風に生まれてこなかったのか、そういった想いと共に、そんな子が自分のことを慕ってくれていると思うと、何とも云えない嬉しい気分になってしまうのだった。 「あの、お姉さま……これでは、いつまで経ってもお姉さまがご自分の練習にお戻りになれません。私、自分で練習しますから、お姉さまはどうか……」  由佳里は初音に心配そうに見詰められると、はっと我に返った。 「え、あ……うん、大丈夫よ。もう少し付き合うから。後輩の指導だって、あたしの部活内容のうちなんだからね」 「お姉さま……ありがとうございます」  由佳里の返事に、初音は掛け値無い笑顔で歓びを表現する。そんな笑顔に見惚れて、由佳里は気付いていなかった。  ……周囲にあった戸惑いの視線を。 「えっ、あの……?」  次の日、いつものように初音の練習に付き合っていると、由佳里は部長である三年の多岐川《た き がわ》千佳《ちか》に呼ばれた。 「ですから……上岡さんは少々、皆瀬さんに手を掛けすぎなのではないかと、そう云っているのよ」  由佳里が云われたことを反芻して考えていると、千佳の言葉が畳み込むように続けられた。 「……紀香《のりか 》や美和《みわ》が居てくれれば、私も上岡さんにこんなことを云う必要は無いのだけれど……まりやお姉さまも、余計なことをして下さったものね」  千佳の一言に、由佳里は何かカテンと来た。それが「まりやの妹」である由佳里に対しての間接的な嫌味であることにすぐ気が付いたからだ。  紀香と美和という二人の先輩は、「まりやに陸上部を辞めさせられた」ことになっている。現部長である千佳としては、仲の良かった二人が「辞めさせられた」経緯に納得が行っていなかったらしい。それが、まりやの在学中には云い出せなかったことが、ここに来て噴出してしまったのだった……。 「そんな云い方は無いじゃありませんか……まりやお姉さまだって、好きでそうしたわけじゃ……無いかも知れないのに」  思いも掛けなかった由佳里の反抗に、千佳は微かに眉を吊り上げた。 「好きでも何も……嫌がるあの子たちを無理矢理辞めさせたじゃないの……」 「千佳部長……」 「とにかく良いわね。上岡さんも、皆瀬さんの世話はほどほどにして、他の新入生たちの指導に回って頂戴」  由佳里はそんな千佳の表情に理不尽を感じたけれど、まりやの決心のことを思うと、それ以上口を動かすことは出来なくなってしまっていた…… 「……そんな事になっているとはね」  その日の午後、寮には卒業したまりやがやって来ていた。夏過ぎからアメリカで新学期が始まっていたけれど、丁度親の用事で日本に戻ってきていた。 「すみません、折角遊びに来て下さったのに……こんな話」 「いんや…そう云う話をするのも楽しいもんよ。そう、千佳がそんなことをねえ……」  由佳里が淹れたロイヤルミルクティーを楽しみながら、まりやは何事か考えている。 「ま、初音ちゃんを猫っ可愛がりしていた由佳里にも問題はあるかも知れないけど、それとこれとは全然次元の違う問題だしね」 「はあ……でも、最上級生のお姉さま方は皆さん、楽しそうに新入生の指導をなさっていたと思うんですけれど……そんなことを云われると、少し考えちゃいますね」  そう云って困った顔をする由佳里に、まりやは「やれやれ」と云った感じに笑うと、ぱんぱんと肩を叩いた。 「ほれほれ、いつまでも腐ってないで……今日は約束通り、初音ちゃんにあたしのお古持って来てやったんだから……そんな顔するな」 「あは、そうでしたねっ!」  そう笑顔で返事をした由佳里だったけれど……結局そのあと、由佳里の表情が晴れることは無かった。 「例えば、あたしが千佳に何か云ったとして……」  夜の並木道。帰るまりやを学院の校門まで送り届ける途中、まりやは突然話し始めた。 「それは根本的な解決にはならないわね……あたしが居なくなればまた同じ所に逆戻り。千佳がそんな子だとは思わなかったけど……ま、部長としての器がなかったのね」  まりやはそういって一方的に千佳を責めるけれど、由佳里はそう思っていなかった。自分の方にも非を認めて……けれど、千佳の言動にも納得が行っていなかった。 「まったく、由佳里は損な性分だなぁ」 「きゃっ、いた、いたたっ……!」  そう云ってまりやは、急に由佳里の頭をグリグリと撫でる。 「………いい? 由佳里。あたしの事なんてどうでも良いんだ。悪く云われるなら云わせておきな……それに、あんたがあたしの妹だからって、あんたが引け目を感じることじゃないよ」 「まりや……お姉さま……」 「今のあんたは……陸上をすごく『楽しんでいる』。それは確かに、大会で勝ちたいとか……そういう『競争心』を求める方向からはずれているかも知れない。でもね、学校の部活なんていうのは、それで良いんだと思うのよ……そもそも恵泉の陸上部なんて、どう頑張ったって地区大会止まりのレベルなんだから」 「でも……良いんでしょうか……」 「良いと思うよ、少なくともあたしは。大事なのは『やる気』と『頑張った想い出』さ……あたしも別に、記録が出ないとか、周りに悪い影響があるっていう理由だけで紀香たちを辞めさせた訳じゃないんだからね」 「お姉さま……」  まりやは由佳里の頭から手を離すと、軽くウィンクをして見せた。 「あんたがやりたいようにやんなさい。楽しんだモン勝ちなのよ、こういう時は……じゃね!」  気付くと二人はいつの間にか校門の所まで来てしまっていた。軽く手を振ると、まりやは由佳里の方を振り返らず、楽しそうに歩いてゆく。その背中には後悔も逡巡も感じられなかった。 「まりやお姉さまっ! ありがとう!」  聞こえていないように見えるその背中に、けれど由佳里は、大きな声で叫んだのだった……。 「あの…宜しかったのでしょうか」  その夜、由佳里の部屋にお休み前のお茶を滝れにやって来た初音が、少し顔を赤らめてそう云った。 「……何が?」 「その、まりやお姉さまからのプレゼントです……あんなに素敵なお洋服を何着も頂いてしまって。由佳里お姉さまは一着も頂いていらっしゃらなかったのに」  別に由佳里は遠慮したわけではない。単に自分にそれが似合わないことを解っていたからだ。一年の頃であればまだしも、今はもうかなり身長も伸びたし、それに何より部活清けで健康的に日焼けしてしまっている……まりやのお古であるところの、恒例のひらひらゴスロリなんて、着ようと云う気すら起こらなかった。その点、初音はお人形みたいに繊細で華奢《きゃしゃ》だったから、着る衣装着る衣装、まるであつらえたようによく似合っていた。 「そういえば、初音は焼けないね……部活を始めるようになって、結構外にいる時間も多くなったのに」 「日焼け止めをしてるんです。肌が弱いので……かなり厳重に」  何故か申し訳なさそうに、初音が答える。 「そっか…でも初音は肌が綺麗だから、白い方が映えるよね」  由佳里の言葉に、初音は顔を真っ赤にする。 「そ、そうでしょうか……あの、そういうお話なら、お姉さまも小麦色の肌がすごく恰好良い……です」 「え、いや……別に無理して褒めてくれなくてもいいよ」 「ほ、本当にそう思いますっ……!」  軽く受け流そうとしたところ、案外に初音が自説を主張して見せたので、由佳里は驚いて目を丸くした。 「そ……それはどうも、ありがとう………」  当の初音は、云ってしまってから顔を真っ赤にして、まるで湯気が噴き出しているかのようだ。そんな初音の様子を、由佳里は楽しそうに眺める。 「本当は……私も由佳里お姉さまと一緒に日焼けしたいんです。でも肌が弱いから、焼けないで真っ赤になっちゃうんです……」  真剣な面持ちでそんな風に話す初音を、由佳里はとても愛おしく思った。まりやが自分を見ていた時も、こんな気分だったのかな……なんていう風に考えたりもした。そして由佳里は気が付いたのだ。  ……今の自分にとって、何が大事なのかって云うことに。  次の日、由佳里はひとつの決心をして、千佳の前に立った。 「千佳部長……その、少し宜しいですか?」  由佳里の表情に何かを感じ取ったのか、千佳の表情も僅かに硬くなる。 「……何かしら」  少し奥まった場所に移動してから、千佳は由佳里に用件を尋ねた。 「昨日のお話なんですけれど……確かにあたしは初音に注力しすぎていたかも知れません……でもあたし、約束したんです。初音がちゃんと走れるようになるまで教えるって」  由佳里の発言に千佳は「予想通りね」といった目つきをすると、苦々しい表情で由佳里のことを見詰め返した。 「貴女はまりやお姉さまにそっくりね。そんな風に、なんでも自分の思い通りになると思っているところも」 「……っ、まりやお姉さまは関係ありません。そんなに紀香さま達を辞めさせたのが気に人らなかったなら、なぜまりやお姉さまに直接|仰有《おっしゃ》らなかったのですか? あたしに八つ当たりしたって、今更どうにかなるような話ではないでしょう」 「な………っ!」  毅然と由佳里に反論され、千佳は瞬発的にカッとなったのだろう、本人知らずのうちに腕を振り上げていた。 「…………っ!」  叩かれる、と思って目をつむった由佳里だったが、振り下ろされる筈の腕は一向に降りてくる気配がない。 「………何を……っ!? 紀香、美和……どうして!」  千佳の狼狽した声に由佳里が眼を開くと、彼女の振り上げられた手は何者かに捕まれ、未だ頭上で停止していた。  そんな千佳を抑えていたのは、なんと去年部活を辞めた筈の、紀香と美和の二人だった。 「先輩方……どうして?」  紀香と美和は、由佳里の問いに互いの顔を見交わすと、苦笑いを由佳里に返した。 「まあ一応、何と云うか……自分の最後の責任を果たしに…ってところかしら」  紀香は、そう云ってつかんでいた千佳の腕を放した。 「千佳にちゃんと話さなかった、私たちの責任だからね」 「美和さん……」  突然のことに呆気に取られていた千佳は、名前を呼ばれて美和の方を振り返った。 「ごめん……その、千佳」 「……なんで、美和さんが謝るの? 一体、どういうこと?」 「貴女にはちゃんと云っていなかったけれど……私たちが陸上部を辞めたのは、まりやお姉さまの所為じゃないの」  紀香の言糞に、千佳は一瞬眼を見開く。そのあと「よく解らない」と云った表情で二人を見詰め返した。 「私たち……その、陸上に対してやる気を失くしていたのよ。そんな時、まりやお姉さまがそれに気が付いて……相談に乗って下さったの」 「けれど、この学院では……なんというか、自主退部はとても居心地の悪いものでしょう? だから自分たちから辞める勇気もなくて……そうしたら、『私の所為にして良いから』って、まりやお姉さま……そう仰有って」 「誰にも……知られたくなくて、千佳にも何も云わずに……だから、ごめんなさい」  そう云って頭を下げる紀香と美和に、千佳は両手を口に当てたまま動かなかった。 「先輩方……」 「私たちの所為で、由佳里にも迷惑を掛けたわね……ごめんなさいね」 「い、いえ……そんな事は……!」 「私たち、まりやお姉さまには感謝しているのよ。辞めた時にはまだ迷っていて、少しお姉さまの好意を素直に受け入れられなかったこともあったのだけれど……こうして陸上とすっかり離れてみて、それが私たちにとって正しかったって、よく解ったの」  紀香はそう云って由佳里に笑いかけると、放心している千佳の肩に優しく指を掛けた。 「だからね、千佳……貴女にも、自分の思った通りにして欲しい。私たちが部を辞めたことが貴女にとっての重荷になっているのなら……それを私たちの所為にしてくれて良いのよ」 「っ………っっ…………!」  千佳はそんな紀香の言葉に、声にならない嗚咽を漏らしながら、けれど必死に首を横に振った。 「私……は、紀香さんと一緒に部活をするのが……とても、楽しかったの。それなのにいきなり辞めてしまって……まりやお姉さまが辞めさせたって、そう聞いて。でも、もうその時にはまりやお姉さまは部に顔をお出しになっていなかったし……どうすることも、私にはどうすることも出来なかったから……!」  やがてゆっくりと、震える声で千佳の唇から言葉が紡がれて行く。  紀香も美和も苦しそうな表情で、けれど目を背けずに千佳の言葉に耳を傾けている。 「……ごめんなさい。せめて、千佳にだけは話をしておくべきだったわ……本当に、ごめんなさい」 「紀香さん……美和…さん………」  千佳は二人に優しく肩を抱き留められて、顔を両手で覆うと、ゆっくりと泣き始めた……。 「……由佳里お姉さま?」  校庭に戻ると、初音を始めとした陸上部の部員たちが、心配そうに由佳里の周りに集まって来た。 「それで上岡さん、千佳は?」  下級生の指導に当たっていた他の三年生たちも、由佳里の方にやって来る。 「千佳部長は……紀香さん達と一緒にお帰りになられました。もう少し、お二人とお話があるそうです」 「そう……千佳さんも最近、随分と気を張っていたみたいだったものね。彼女に部の管理を任せっきりだった私たちにも責任があるわね」 「お姉さま方……」 「上岡さん、貴女の所為じゃないわ。私たちにも落ち度があった……だから気にしないで、ね?」 「はい……ありがとうございます」  二年生たちの慰めの言葉にそう答えながら、こんなに優しい人たちしか居ない場所なのに、どうしてこんな事になってしまうのだろうか……そう、由佳里は思っていた。そしてきっと、紀香たちを動かしたのは、まりやお姉さまに違いないと、そう考えた。まりやは学院を去ってしまったが、それでも彼女は自分の「姉」なのだと……そんなまりやの心が、由佳里にはただ、嬉しかった……。 「でも、だからってこんな事になるなんて……」  明けて次の日の放課後、初音を横に引き連れて桜並木をとぼとぼと寮に帰る由佳里の姿があった。 「次の部長を……上岡さん、貴女にお願いしようと思うの」  千佳を筆頭とした三年生たちは、部活にやってきた由佳里に対して、開口一番にそう宣言した。千佳は自分の行動は誤りであったと由佳里に謝罪すると共に、部長職を引退し、後釜を由佳里にする旨、三年生一同で協議して決めたと云うのだ。  まだ一学期も半ばで、三年生も十人以上いるのに……と由佳里は抗弁したが、三年生たちは自分たちはサポート役に徹し、協力は惜しまないからと譲らない。そのうち二年生の仲間たちも三年生の味方をして、最終的には……初音以外の部内全員からのお顔い、と云う形で、由佳里は二年の一学期だというのに部長に押し上げられることになってしまった。 「あの……でもきっと、由佳里お姉さまなら立派に部長職の責務をお果たしになられると思います」  初音はか細い声だけれど、誇らしげに由佳里にそう宣言する。当の由佳里は、そんな嬉しそうな初音を横目で見ながら苦笑する。 「元はと云えば、誰の所為でこんな事になったと思っているのかしら? 初音は」 「えっ……あ、あの……わ、私の所為、なのでしょうか……で、ではどうすれば……?」  由佳里の軽い恫喝《どうかつ》に、あっという間に泣きそうな…というか、実際に目元に涙を浮かべると、困惑の表情を浮かべて姉を見上げた。 「……はあ、そんな顔しないでよ。仕方がないわね……じゃ、寮に帰ったら美味しいロイヤルミルクティーを淹れなさい。そうしたら勘弁して上げるわ」 「ろ、ロイヤルミルクティーですかっ……わ、わかりました! あ、あの……一生懸命美味しいのにしますから……っ!」  懸命な表情を浮かべる初音に苦笑すると、由佳里は彼女のさらさらの髪をくしやりと撫でた。 「ん、期待してるぞ……我が妹よ」 「はっ、はい……っ!」  そうこうしているうちに、寮の明かりが見えてくる。  由佳里は頭の中で、まりやが帰りしなに残していった「あんたがやりたいようにやんなさい」という言葉を思い返していた。 「そうね……やってみます。まりやお姉さま」 「あの……何か仰有いましたか?」 「いいや……なんでもない。さ、早く中に入ろう……初音」 「……はい、由佳里お姉さま」  由佳里の差し出した手を初音が嬉しそうに取る。  そうして、由佳里の陸上部部長としての最初の一日が、ゆっくりと終わろうとしていた……。 [#改ページ]    妹は騎士さま!? 「わかった……その勝負受けてやる」  ——それは秋の初め、寒風の吹き込み始めた屋上での出来事だった。 「と云うことで、ヒロインは奏ってことで……良いかしらね?」  どっと、部室の中は拍手の海で溢れかえる。少し背の高くなった奏は、けれど自分よりも背の高い下級生や仲間たちから取り囲まれ、祝福の渦の中にあった。 「そ、そんな緑部長……この脚本でしたら別に私ではなくとも……」  そう抗議する奏だったけれど、今年の演劇部の新入生は半数以上が去年の演目「イノセント・ガーデン」に憧れて入部した中等部エスカレーター組で占められている。そんな彼女たちにとっては、奏がヒロインの座に着くことは最初から規定の事実と云って良かったのだ。 「ま、後輩たちからの熱烈な支持もあるしね。諦めて頂戴副部長……あ、そうそう、演出の方もよろしくね」  そう云って、演劇部部長・鷲尾緑《わしおみどり》は楽しそうに奏に対してウィンクすると、のほほんとした表情で脚本に視線を戻した。  去年は緑先輩はこんなスーダラな人ではなかったはず……と奏は思ったが、今そんなことを考えても仕様のないことだった。部長に任されたからには、副部長たるもの、最早やらざるを得なかったからである。 「それにしても五十嵐《い が ら し》恵美《めぐみ 》さんか……去年の『イノセント・ガーデン』もそうだったけど、なんていうか、良い脚本書くよねぇ……」  緑は去年も使った脚本集を眺めながら、恍惚と溜息を吐きながらそう漏らした。それに関しては奏も全く同意見だった。 「でも、五十嵐さんって、『イノセント・ガーデン』を書いた頃は、まだ高校生だったんですよね……凄いことだと思うのですよ」  今年上演される演目も、この脚本家・五十嵐恵美の作品集から選ばれた。大正時代の女学生「茅《かや》」と書生「雄生《ゆうせい》」の仄《ほの》かな恋心とその別れを、二人が逢瀬の度に語り合う菅原道真《すがわらのみちざね》の人生と別れに重ねて描いた『白菊の夢〜セ・デウスキゼル』という小品だ。 「脚本家さんって、よくもまあこんな話を書けるわよね……っていうか、普通に思いつかないと思うんだけど。菅原道真っていうとさ、私なんて梅好きくらいにしか思ってなかったんだけど、白菊なんて好きだったんだね……それに、『セ・デウスキゼル』って、どういう意味? というか何語?」  緑はページを繰りながら、ぶちぶちと文句を云っている。選んでおいてそれはないだろう……と部員たちはちょっぴり思ったが、緑の云う事ももっともだ……とも思っている。 「あ、それ私知ってますよ。ポルトガル語で『|se deus quiser《セ・デウスキゼル》(神様がお望みならば)』って云う意味ですよ」  二年生の礼子が発言すると、周囲が「お〜〜〜」と云う感じでどよめいた。 「ちょっとみんな、今の『お〜〜』って何よ。私が知ってたら可笑しいとでも云うの?」 「いや、まあ……普通に驚くでしょう。ポルトガル語なんて習っても居ないんだし? そもそも何で礼子がそんなこと知ってるのよ」  緑が茶々入れ半分に礼子に聞き返す。 「え、いや……親戚がブラジルに居てたまに遊びに行くんですけれど、その時に覚えました。挨拶の時に使うんですよ、これ」 「挨拶? 『神様がお望みならば』って挨拶するの?」 「ええ、例えば『|Ate amanha!《アテ・アマーニャ》 |se deus quiser《セ・デウスキゼル》(また明日、神様がお望みならば)』とか、そんな風に使うんです」 「へえ…流石にキリスト教のお国柄ね。っていうか、礼子にそんなことを教えられるのって、なんだかちょっとショックだわ」  緑が戯《おど》けて見せると、部室は軽い笑いに包まれた。 「だから、それってどういう意味ですか……」  話は配役のことから大分脇道に逸れていってしまい、結局奏がヒロインを演じることは、なし崩しに決まってしまったのだった……。 「へえ……それでお姉さま、今年もヒロインに決定しちゃったんだ」  その夜、奏は妹である薫子の部屋にティーセットを携えて遊びに行くと、部活で起こった事を話して聞かせた。 「ええ、そうなのです……私としては、ヒロインの親友役が心情的にとても深くて、演じ甲斐のある役かな……と思っていたのですけれど」 「ま、外部編入組のあたしとしては嬉しいかな……去年のお姉さまの舞台は見られなかった訳だしね」  奏に淹れてもらった紅茶を美味しそうに啜《すす》ると、薫子は満面の笑みを浮かべてそう答える。 「そ、そんなに大したものでは無かったのですよ?」  一方の奏は顔を真っ赤にして否定するけれど、薫子の方も譲らない。 「何云ってるの……クラスのみんなに聞いた話じゃ、ボロ泣きした生徒が続出したって話じゃない……今更そんな事云ってもダメダメ」  情報は既に仕入れ済み、そんな謙遜は聞き耳を持ちません……薫子はそう云って笑い、奏の劇が楽しみだ、と締めくくる。 「そ、それでね薫子ちゃん……あの、私ちょっと、薫子ちゃんにお願いがあるのですけれど……」  奏をからかっていた薫子だったけれど、そんな奏のお願い事に、今度は薫子の顔が真っ青になったのだった……。 「な、七々原さん、二年の周防院さまがお見えよっ!」  次の日の昼休み。一年B組の「受付嬢」柏葉《かしわば》冴子《さえこ 》は、大慌てで薫子のところに転がり込んで来た。 「ええっ?!」 「あの、演劇部の周防院先輩がっ!?」  クラスメートたちは冴子の言葉を皮切りに、にわかに色めき立ちはじめる。 「あ、奏お姉さまが? ありがと、冴子さん」  そんな冴子やクラスメートに対して、薫子は特にあわてる風もなく……弁当の包みと一冊の本を取り出すと、廊下へと歩いて行く。 「奏お姉さま、お待たせ」 「いいえ、ごめんなさいね、薫子ちゃん」 「良いって……じゃ、行きましょうか」 「ええ」  楽しそうな奏と、それに付き合うのんびりとした様子の薫子。更にその様子を教室の窓から顔を出して鈴なりに眺めるクラスメイトたち……一種異様なその様相は、にわかに事件の雲行きを漂わせ始めていた……。 「……ね、薫子ちゃん?」 「ん? なに?」  それから数日が経ったある晩、夕食の食器を洗っている薫子に、横で一緒に片づけものをしていた初音が話しかけた。 「あの……ね、薫子ちゃん……私、今日変な噂を聞いてしまったんですけれど……」 「噂……? 一体どんな」  いつもの事ながら、少しおどおどした云い回しの初音に、薫子は優しく話しかける。それは、薫子なりに編み出した初音とのコミュニケーション方法だった。  普段通りに薫子の喋り方で接してしまうと、初音は縮こまってしまって、返事を返すことすら出来なくなってしまうのだった。最初こそ苦笑気味だった薫子だったけれど、奏に「世の中には色々な人が居るものなのですよ」と諭されてから、自分の考えを少し改めるようになった。そうして向き合ってみると、初音というのはとても女の子らしい、優しい女の子だということがよく判った。 「薫子ちゃんがね……その、奏お姉さまをまるで手下みたいに扱ってる…っていう噂なの」 「なっ………なによ、それ」  最初の「なっ」で初音がビクッと身体を震わせたので、薫子はそこで思い留まると語気を和らげた。 「どうも周りから見ると、そういう風に見えるみたい……私は薫子ちゃんのことも、奏お姉さまのこともいつも見ているから、二人がどんな関係なのか、判っているつもり。でも……」 「学院のみんなからすると、そういう風には見えない……と。なるほどね」 「奏お姉さまが薫子ちゃんを迎えにいらっしゃるんですって? 多分、その辺も悪い噂の原因になっているのではないかしら………」  初音はか細い声だけれど、非常に理知的に女性心理というものを分析している。ことこういった部分に関して、薫子は自分などよりも余程初音のことを信用している。 「そうね……」  肯《うなず》く薫子に、初音は微笑みかける。 「でも、薫子ちゃんはそう云った状況を……変えるつもりはないのよね?」 「……何で、わかるの?」  あっさり考えていたことを看破された薫子は、驚いて初音を見詰める。 「ふふっ、薫子ちゃんは奏お姉さま絡みになると本当に頑固ですから。でも、そんな薫子ちゃんの気持ち、私にはよく解りますから」 「……ご慧眼《けいがん》、恐れ入るね」  薫子は、自分の小さな……けれど理解のある友人に敬意を表すると、少しばかり頭を掻いた……それは、恥ずかしくなった時に見せる薫子の癖だ。 「その……あたしとしてはさ、奏お姉さまが楽しそうにしてるのを邪魔したくないんだ。本当に……それだけなんだけど」 「ふふっ、薫子ちゃんって本当に奏お姉さまのことが大好きなのですね」 「いや……そんなことは。ただ本当に、あの人が笑っているのを見るのが、あたしはすごく……好きなんだ。それだけだよ」  普段|傲岸《ごうがん》な感じの薫子が.こう云う時だけは珍しく、顔を赤らめて恥ずかしがる。そして初音は、そんな薫子の姿を見るたびに、彼女の優しさに触れるのだった。 「だから初音……その、奏お姉さまにはこのことは、その……」 「解っています薫子ちゃん。私からは絶対に……でもいずれにせよ、いつかは奏お姉さまにも伝わってしまうでしょう……由佳里お姉さまが気付くかも知れませんし、それに」 「そうね……心ない人間もいるでしょうしね。でも良いの……あたしは、あたしが出来ることをするだけよ」  初音は、この長身の…颯爽とした友人が頼もしく、そしてそんな人の友人になれたことを誇りに思っていた。 「……はい。さ、洗い物も終わったし……そろそろ由佳里お姉さまにお茶をお持ちしなくちゃ」 「さて、じゃあ私はそろそろ部屋に戻ろうかな」  対照的な二人、行動は異なるけれど目的は同じ……お姉さまとお茶を楽しむ為に。 「ふふっ……本当に薫子ちゃんのところは『逆転姉妹』なのね」  でも初音は知っていた。どんなにあの二人の上辺が逆転していようとも、姉はちゃんとした「姉」であり、妹は甘えん坊な「妹」なのだと云うことを……。 「薫子ちゃん、お水は?」 「あ、うん。もう要らない。ありがとう奏お姉さま」  奏が薫子の教室を訪ねてくるようになってもうすぐ二週間が経過しようとしていた。  相変わらずテラスや食堂で甲斐甲斐しく薫子の世話を焼く奏の姿があった。 「じゃ、そろそろ行こうか」 「ええ」  そして二人が居なくなると同時に、その場所は噂話の温床になっていった。 「ねえ、いくら寮での妹だからって、あの態度は一体どういう事なの!? 奏さまを召使いか何かだとでも思ってるの!」 「それに、食事が終わるといつも二人で何処かへ居なくなるじゃない……一体何処で何をしているのかしら……」  噂は尾ひれを大きくしながら学院内を席巻し、それは、最後に大きな事件を引き起こそうとしていた……。 「『秋の海辺が、こんなに情緒のあるものだったなんて……私存じませんでしたわ』」 「『今日は折良く小春日和ですからね。人は居ませんけれど』」 「『ふふっ、そんな寂寥《せきりょう》なところも素敵です!』」 「『茅《かや》さん、そんなにはしゃぐと、砂に足を足を取られて……』」 「ええと……ここで砂に足を取られて、茅が雄生に抱き留められて、二人で倒れ込む……のですね」  昼休みの屋上……ここで薫子は、奏の為に演劇の稽古の相手役を買って出ていた。読み合わせはもう終わり、奏は体を動かしながら、舞台同様の立ち稽古を行っている。 「えっ、倒れ込むの? でも、ここはコンクリートだから……本当にやったらちょっと危ないんじゃないかな」   「ああ、そうね……じゃあ倒れ込んだところからにしましょうか」  そう云うと奏は立ち上がり、上手の舞台袖を仮想した床溝の上に立った。 「薫子ちゃん、ト書きどうなっていたかしら……」 「ええっと……確か上手から歩いて出てきて科白四つでしょう? 二つめの科白で茅がくるっと一回りするっていうト書きがあったから」 「えっと、こうでしょうか……」  奏は先ほどの科白を二つ唇の上で唱えると、まるで恋人に甘えるように楽しそうな笑顔で、軽くスカートのプリーツを翻し、くるりと回ってみせる。 「回っている最中に雄生の科白、で、そのタイミングで茅が足を取られる、雄生が抱き留めて、倒れる」 「『ふふっ、平気ですこれくらい……きゃっ……!?』」  そんな薫子の言葉に合わせて、まるでその場に相手役が居るように、滑り、抱きつく振りをして、倒れる奏。 「わわっ、お姉さまっ!」  ばさっ!  コンクリートの床に倒れ込みそうになった奏を、慌てて抱き留める薫子。 「だからお姉さま、危ないから本当にやらないでって……今云ったばっかりじゃないですか、もう!」 「あはっ、いけません……そうでしたね」  奏は楽しそうに微笑む。どうも演技のことに集中すると、他のことや注意力がなおざりになってしまうようだ。 「まあ……怪我がなければ、それで良いんですけどね」 「ありがとう、薫子ちゃん……せっかくですから、このまま練習を続けましょうか」 「そうですね。確かに丁度こういう体勢になるはずですし……って、お姉さま? まさかわざと転んで見せたんじゃないでしょうね……」 「あはは…ばれてしまいましたのですね」  今度は軽く舌を出すと、にっこりと笑ってみせる。董子は、ただそれだけで二の句が継げなくなってしまう。 「んもう……じゃあはい、続けますからね」 「はい、お願いします」  薫子は、奏を片腕で抱いたままで台本を検《あらた》めると、次の科白を読み始める。 「『ほら、だから云わぬことではないではありませんか……』」  その科白に拍子を合わせると、奏はそっと薫子の胸に顔を埋《うず》め、それからゆっくりと顔を上げて、潤んだ瞳で薫子の方を見上げた。 「『申し訳ありません……でも雄生さん。今は少しだけ、このままで……』」  奏の潤んだ瞳に見詰められると、読み合わせを忘れたかのように薫子は動かなくなった。それはまるで、奏の瞳に吸い込まれてしまったかのように……そして、奏はそっと薫子の首元に額を当てると、そっと薫子にしなだれかかった。 「か………」  薫子の唇が微かに何か言葉を紡ごうとした、その瞬間だった。 「七々原さんっ! 貴女は一体何をしているのですっ………!」 「!?」  もの凄い剣幕を感じさせる声に驚いて、薫子がそちらへ顔を向けると、誰もいなかった筈の屋上に、いつの間にか十数人の女生徒が立っていた。どの生徒の表情も怒りに燃えている。 「何なの、あなた達……!?」  薫子は奏と二人、自分がどんな姿勢で居るのかも忘れて声を荒らげる。だがどうもそれは彼女たちには逆効果であったようだ。十数人が一斉に口を開くと、それぞれが重なり合って、理解できない罵詈雑言《ば り ぞうごん》を吐き出した。ただ、その言葉の全てが薫子を暗に責めている……と云うことだけは、途切れ途切れに聞こえてくる言葉の断片から理解した。 「あ、あの……皆さん……」  それは奏の耳にも入ったのだろう……奏が控えめな音量で、女生徒たちをなだめようとする。だが、奏が言葉を続けるよりも早く、相手の中から一際目立つ容姿の女生徒が現れて、奏の言葉をかき消した。 「七々原薫子さん……貴女は奏さまの妹という立場でありながら、奏さまの尊厳を損ない、侮蔑《ぶ べつ》しましたね。私たちはその行為を許すことが出来ません!」  高々と宣言するその生徒の瞳には、どう例えるべきなのか……高潔というか、嫉妬に燃えたと云うべきか……とにかく、そんな表情で薫子を睨み付けていた。 「誰が一体、いつそんな行為をしたというの……云い掛かりも大概にして欲しいわね。それで、貴女方は一体どうしたいのかしら?」  売り言葉に買い言葉、薫子は持ち前の気性の荒さで相手に食って掛かる。奏が押し留めようとするのも聞かずに薫子は奏の肩をぐっと抱いた。 「くっ……私たちの代表と、勝負なさい!」  ……勝負。  その的外れな単語と的外れな考え方に、薫子は笑った。笑ったが、薫子は彼女たちを許せなかった。恐らく弁明すればそれで済むだろう。でもお姉さまを——奏をそういう眼でしか見ることの出来ない連中を、薫子が許すことなど出来なかったのだ。 「わかった……その勝負受けてやる」 「か、薫子ちゃんっ!?」  薫子に肩を抱かれたままで事の推移を見守るしかなかった奏は、その言葉に驚いて薫子を見る。 「負けたらあんたたちの好きなようにすればいい。だがあたしが勝ったら今まで通り、好きなようにさせて貰う……それでいいな?」 「さて……ねえ」  結局、彼女たちの代表とやらと勝負をする事になってしまった。  その事について、別に薫子は何とも思っては居なかった。 「しかし、フェンシング……とは、ちょっと困ったわね」  薫子にしても、お嬢様学校の生徒が殴り合いやつかみ合いの喧嘩を吹っ掛けてくるとは思っていなかったものの、まさかそんな珍妙な勝負方法を提案されるとは、さすがに思っては居なかったのだ。 「由佳里先輩…誰か居ません? フェンシングをぱぱっと教えられるような……そんな知り合い」  夕食後のお茶を楽しんでいる時間、薫子は困った表情で由佳里を見る。  由佳里は愉快そうに、隣で機嫌を悪そうにしている奏と困惑する薫子の表情を見較べると、おもむろに口を開いた。 「そうね……お忙しいかも知れないけど、一人だけ……居ることは居るわね」 「えっ……!?」  対照的だった二人の表情が、一緒に驚愕の表情でもって由佳里を見る。由佳里はそれが可笑しくて、くすくすと笑いながら言葉を続ける。 「いいわ、お願いしてみるね……ただ、教えてもらえるかどうかは、薫子ちゃん次第……かしら」  意味ありげな言葉に、仲を違えていたはずの二人はお互いの顔を見合わせると、何とも云えない心地で由佳里の顔を見たのだった……。 「まさか、そんなことで私にお呼びが掛かるとは……思いもつかなかったことだけれど」  次の休み、寮に由佳里の云う「心当たり」の人物がやってきた。 「ま、宜しいんじゃありませんか? 瑞穂さんにとっても、可愛い妹である奏さんの為ですからね」  由佳里に「奏の一大事」と呼ばれてやって来たのは、元奏の「お姉さま」であるところの宮小路瑞穂、その人である。一緒にいるのは先代の生徒会長・厳島貴子、そして瑞穂と貴子の大学の友人であり、瑞穂のひとつ前のエルダーであった十条紫苑だ。 「そうですよ瑞穂さん。奏ちゃんが困っているのですから、ここはひとつお姉さまとして助けて上げなくてはね」  瑞穂は自分が呼ばれた理由にも驚いたけれど、貴子や紫苑の楽天ぶりにも苦笑してしまった。 「ま、出来るかどうかは解らないけれど……それにしても、随分と思い切りが良いわよね、薫子ちゃんは」  以前遊びに来た時に紹介されていたので、今更それほど驚きはしなかったけれど、勝負を挑まれてこれほどけろりとしている女の子は珍しい。瑞穂はそう思っていた。 「で……あの、瑞穂さまって……フェンシングはお強いのですか…?」  薫子は薫子で、まさか瑞穂が助っ人だとは思っても居なかった。物腰も柔らかくて女らしい……そして華奢な彼女にそんな芸当が出来るとは、薫子は全く思っていなかったのだ。 「さあ……それは何とも云えませんけれど。薫子ちゃん、確か剣道は強いのよね?」 「え……一応三段ですけれど……」  薫子の年齢で三段となると、それは最高位と云って良いだろう。瑞穂は頷くと優しく微笑んだ。 「一応聞いておくわね……どうして勝負なんてしようと思ったの? それは優しい奏ちゃんを悲しませるだけなのではないかしら?」  瑞穂の優しい声……けれど薫子はその声の奥に潜む、瑞穂の厳格な眼の光りに気付かされ、思わず姿勢を正した。 「お姉さまを——奏お姉さまをあんな風に、見せ物か何かみたいな眼でしか見ることの出来ない連中を、あたしは許すことなんて……出来ません」 「薫子ちゃん……」  瑞穂を見据えると、一音一句強い口調でそう答えた薫子を、奏は驚きの表情で見詰めた。 「……良い子ね、薫子ちゃんは」  瑞穂がそう云って笑うと、傍で見守っていた貴子と紫苑が互いを見つめ合って微笑んだ。 「期間がそれほどないから付け焼き刃になってしまうけれど……そうね、必ず薫子ちゃんを勝たせてあげるわ。但し、ちょっと厳しいわよ? いいかしら」  薫子は瑞穂の眼を見る……そこには間違いのない強さが宿っていた。薫子には、最早瑞穂の強さを疑う理由がなかった。 「よろしくお願いしますっ……瑞穂お姉さま!」  そして、瑞穂の薫子に対する猛特訓が始まった……。 「もっと早く! 緩急をしっかり付けなさいっ! |ファント《 突 き 》!」  カッ……ンッ!  二人の待つ|剣《エベ》が甲高い音を立てて交差する。 「重心をもっと前に! もう一度!」  カッ……ンッ! 「頭ではなく、体で距離を叩きこみなさい! |ルトレット《 後 退 》!」 「わわ……っ!」  キャリリ……ッ!  瑞穂の一閃で、巻き込まれた薫子の剣は外に弾き出されてしまう。 「それでは突いて下さいって云ってるようなものでしょう……ほらしっかり!」 「はいっ……!」  カッ……カンッ!  フェンシングは剣を扱うスポーツとはいえ、剣道とは全く違う。軽い剣で相手を突くことに特化したフェンシングでは、剣道と違い、剣を片手に持ちもう片方の腕は突きを繰り出した体制を素早く戻す為のカウンター・ウエイトの役割を果たす。  体を真横に開き打突面積を減らし、大腿部の力とバネを活かしたステップワークで敵を翻弄する。相手の剣をかいくぐり、その胸に自らの剣を突き立てる……そういう兢技なのだ。 「薫子さん、良い勘をしていらっしゃいますわね。もう瑞穂さんの動きに対応し始めていますよ……この調子なら、本当になんとかなるかも知れませんわね」 「ええ……ふふっ、それにしても瑞穂さんったら、始める前はあんなに嫌がっていらっしゃいましたのに……やっぱりそう云うところ、男の方ですね」  紫苑と貴子はそう云いながら観察の手を緩めない……彼女たちは観客として、そして観察者として優秀だった。瑞穂の気付かない薫子の手癖や無駄な動きを指摘し、改善させるのは彼女たちの手腕と云えた。だが、そんな彼女たちを以てしても、薫子にこの短期間でフェンシングをものにさせるのは容易成らざる事と云えるのだった。  そして勝負の日は、刻一刻と迫りつつあった……。 「はぁ……い、いたたぁ……」  薫子の長身でスレンダーな肢体が湯船に沈むと、その唇からなんだか年寄り臭い呻き声が上がった。 「瑞穂さんって、手加減ないんだもの……」  そう云って指でなぞる体には、幾つもの痣が出来ていた。すべて瑞穂の剣で突かれた場所だ。 「でも、あの人は凄い……本当に凄い」  由佳里には「瑞穂は剣道も有段者だ」と教えられている。一体あの人に出来ないことはあるんだろうか……薫子はそんなことを考えていた。  カラカラカラ……。 「あの……薫子ちゃん、入っていらっしゃいますか?」  浴場の引き戸が開くと、奏の声が聞こえてきた。 「あ、はい……入ってますけど」 「……ご一緒しても構いませんか?」 「あ……ええ、ちょっと……恥ずかしいですけど」  恥ずかしいのは、一緒のお風呂が……ではなくて、体中が痣だらけだから。 「失礼しますね……あ」  奏は薫子に近づき、そこで足が止まる……それは、痣だらけの彼女の肢体を見た所為だ。 「これは……奏の所為、なのですね」  奏は薫子の前にそっとひざまずくと、手のひらでそっと薫子の痣に触れた。 「……違いますよ、お姉さま。これは、あたしが勝手にしてることだから」  薫子は、自分の痣に触れている奏の手を、自分の手で更に包み込んだ。 「お姉さまは、この学院に解け込めないあたしを、こんなに大事にしてくれる……それが嬉しいの。だから、そんなお姉さまがしたいことを邪魔させたくないの……それだけは」  それだけは守りたい……奏が薫子に自分の素性を——奏が孤児であることを薫子に打ち明けてくれた時、薫子が自分自身に課した誓いだった。 「薫子ちゃん……」  奏はゆっくりと立ち上がると、薫子の身体を優しく抱きしめた……。 「ではこれより、試合を行います。七々原薫子——」  審判を買って出た紫苑の芦に、薫子が競技場に進み出、構え線の上に立つ。 「一条和枝《いちじょうかずえ》——」  相手は恵泉女学院フェンシング部きってのエースを出してきた……それは姑息とも云える手段だったが、つまりは最初からこれが狙いだったのだ。  だが、薫子は臆することもなく和枝と対峙した。こういった火事場の度胸は薫子のある意味独壇場とも云えた。 「|アン・ガルド《構  え  て》!」  紫苑の掛け声を合図に二人は同時に|ガルド《構 え》の姿勢を取る。 「|エト・ブ・プレ《用 意 は よ い か》?」  二人とも何も答えない……沈黙は「諾《よし》」の| 理 《ことわり》だ。  場に緊張が駆けめぐる。声を出すものは一人もいない……。 「|アレ《始め》!」  シャッ……シャリリッ……!  開始の合図と同時に相手が仕掛けてくる。薫子を素人と踏んで、有効打を取りに出たのだろう……だが薫子は相手の手筋を冷静に見極めて剣を操り、受け流す。 「ちっ……」  相手は薫子が冷静なことに気付き、一歩下がろうとする……その時!  ダン……ッ! 「っ……!?」  一瞬の隙を縫って、薫子が基本の型通りに綺麗な突撃《フレッシェ》を見せる。 「ええ……っ?!」  集まった女生徒達の間に動揺が拡がる……そして、有効打を示すランプが点灯した。 「|アルト《や め》! 有効打です、一条さん」  紫苑は和枝を指差すと、競技を中断し、今の薫子の|突き《トゥシュ》が有効であったことを告げる。和枝は面頬《マ ス ク》の奥で信じられない……という表情をしたが、直ぐに我に返ると構え線の上まで戻った。 「まずはひとつ取ったわね」 「瑞穂お姉さま……」  奏と瑞穂もそばで勝敗の行方を見守っていた。 「今回は四本制ですから、あと二つ突きを取れれば薫子ちゃんはまず勝てる……でも、相手も今の突きで目が覚めたみたいだから、次はこうはいかないでしょうね」  互いに構え線の上に戻ると、|ガルド《構 え》を取って合図を待つ。もう薫子を見る和枝の眼からは余裕が消えていた。 「……|アレ《始め》!」  カンッ! 「くっ………!」  今度は薫子が和枝の速さに眼を見張る番だった。動き出したと思った瞬間には、予想した位置よりも更に先にやってくる。 「さすがエースね……綺麗な動きだわ」  そういう瑞穂も、視線を試合から離さない。  シャリリッ……キュッ、カッ、カンッ……!  その場にいるものは、みな無言で二人の戦いを見守った。耳に届くのは二人の剣《エベ》が交錯する音と、リズミカルな足音だけ。  シャリリッ……! 「………っ!」  ダン………ッ! 「あ……っ!」  奏が小さく声を上げた瞬間、和枝の剣尖が薫子の胸に綺麗に吸い込まれ、ランプが点灯した。 「|アルト《や め》! 有効打です、七々原さん」  これで一対一……場内のざわめきには目もくれず、薫子は構え線に戻る。 「……やっぱり、普通に勝負したら敵いっこないわよね」 「お姉さま……」 「大丈夫よ、奏ちゃん……きっと薫子ちゃんは負けないわ」  薫子は構え線に戻ると、眼を閉じで深呼吸を一度、そしてゆっくりと|ガルド《構 え》を取った。 「……|アレ《始め》!」  カンッ……! 「あっ!?」  今度は開始と同時に和枝が攻撃に入る。薫子は和枝の連撃に対し、防戦一方に見える。 「薫子ちゃん……!」  奏が押し殺した声を上げた次の瞬間、それは起こった。  シャリリッ……ダァン……! 「………なっ!?」  優位に押していた筈の和枝が思わず声を上げた……突きを入れた筈の和枝の剣は、弾きに入った薫子の剣に巻き込まれ、腕ごと真横に弾き出されてしまったのだ!  そしてランプが点灯する……身体を真横に開かれてしまった和枝の胸の中心を、薫子の剣が貫いたのだ。 「|プリーズ・ド・フェール《剣  喰  ら  い》……」  予想もしなかった光景に、場内は静まりかえる……初心者の筈の薫子が、和枝の剣をまるで怪傑ゾロか何かのように自らの剣で巻き取ると、腕ごと弾いたのだ……! 「|アルト《や め》! 有効打です、一条さん」  宣言をした紫苑も、驚きを隠せないでいる。 「さすが……薫子ちゃんは良い格闘センスをしてる。多分、もう勝ったわね」  瑞穂はそう云って笑う。実は瑞穂は、薫子に基本的な動作以外では、プリーズ・ド・フェール以外の技を教えなかった。短い期間で薫子が勝つには、基本的な部分をしっかりと叩きこんだ上で、相手の意表を突くしかない考えていたからだ。  だから瑞穂は、フェンシングを教えるのと一緒に、薫子に合気道術の短刀取りを練習させた。相手の剣を絡め取るタイミングを、そしてそれを見極める「眼」を養う為だ。 「ちょっと荒療治だったけれど、素質があったのね、薫子ちゃんには……」  そして最後のランプが点灯する。初心者同然と思っていた薫子が放ったプリーズ・ド・フェールは、和枝の動きを鈍らせるのに十分な効果があった……薫子が最後の一撃を和枝の胸に叩きこんだのだ。 「|アルト《や め》!」  そして呆気に取られる観客を前に、高らかに紫苑の声が響く。 「勝者……七々原薫子」  外した面頬《マ ス ク》の隙間から零れる長い髪に、きらきらと美しい汗がきらめいていた……。 「もう、いいですか! 薫子ちゃん!」  ……その夜。 「あんなに喧嘩はいけませんからって、口を酸っぱくして云っておいたのに!」 「ご……ごめんなさい。でもあれは喧嘩じゃなくて勝負で……」 「口答えしないのです!」 「は、はい……」  薫子は奏に正座させられると、お説教が始まった。 「大体、いくら薫子ちゃんが喧嘩に強いからって……負けたらどうするつもりだったのですか!」 「いや、まあそれは……その……」  捲し立てる奏に、薫子はたじたじになってしまっている。 「そもそも、元々が誤解でしかなかったんですから……あんな勝負なんてしなくても丸く納まっていた筈じゃありませんか」 「その……ご、ごめんなさい……」  もう奏に何を云われても、薫子からはその言葉しか出てこない。 「………もう、でも」 「えっ……」 「嬉しかった……のですよ」 「………お姉さま」  見つめ合う二人に、一瞬の間……けれど。 「でもっ、二度とやっちゃ駄目ですから! いいですねっ!?」 「………は、はい……」  何だかんだと云って、そこは姉と妹……やはり姉は「姉」であり、妹は「妹」なのだった。  ……但し、次の日からは妹も学院中の注目を浴びることになってしまうのだけれど。 [#改ページ]    春の陽と夏の風 「恵泉女学院生徒会は……その伝統も引き継ぎながら、常に新しい風を吹き込んで行かねばなりません……OGのお姉さま方に、つまらない学校になったと云われぬ為にも……ね」  君枝は、優しい笑顔で集められた者達を見回す———そして、由佳里の上に視線を落とすと、にこやかに微笑んだ。 「どうでしょう、上岡さん……貴女のお噂は可奈子さんからも良く伺いますし、宜しければ少し考えては頂けませんか? 無論、陸上部を辞める必要はないのですから」 「辞めなくても……実質、部活に顔を出している時間は無くなるんじゃありませんか?」  由佳里は険しい表情で君枝を見る。それでも、君枝の笑顔は崩れなかった。 「大丈夫です。幸い次の副会長は可奈子さんでしょうし……彼女なら、貴女を生徒会室に縛りつけておくような事にはしないはずですよ」  君枝はそう請け負った……一体何処からそんな自信が出てくるのか、君枝も、そして可奈子もニコニコとした笑顔のままだ。 「あの、お姉さま。いかがでしょうか……お引き受けになってみては」  そう発言したのは、なんと初音だった。由佳里は驚いて初音の方を振り返る。 「ちょ、初音……なにを云い出すの……!?」 「私、ずっとお姉さまに甘え通しでした……陸上ではお返しが出来ませんけれど、お仕事であれば、私、お姉さまのお役に立てると思うんです……それに、由佳里お姉さまは生徒会長に相応しいと思います!」  いつも縮こまっているあの初音が……と思うと、由佳里もそんな溌剌《はつらつ》とした初音に感慨もひとしおなのだが……いやいや、今はそんなことを考えている場合じゃない、と思い直した。 「って云うか……いや、そんな事したら初音に走りを教えることも……」 「大丈夫です……私も一緒にお手伝い致しますから!」 「うっ………」  嬉しそうな初音の笑顔……今一番由佳里の弱いものだ。それを見てしまうと反撃の意志が弱ってしまう。 「ふふっ……面白そうですね。そんな生徒会なら、是非私も参加したいものですわ」  また一人立ち上がる……その姿を見て由佳里と奏は目を丸くした。 「えっ……可奈子……じゃないの!?」  可奈子そっくりの容貌をしているが、眼鏡を掛けており……何よりもその眼鏡の下に見える視線が鋭かった。 「一年E組、烏橘《う きつ》沙世子《さよこ》……可奈子の妹ですわ」 「沙世ちゃん! 生徒会には入らないよって云ってたのに……急にどうしたの?」 「別に……ただ、何もしない生徒会よりは、遥かに面白そうだと思ったから」  ほわほわとした可奈子と、キビキビとした沙世子の会話……どう聞いても姉妹関係が逆のように聞こえる。 「どうでしょう、上岡さん……きっとやり甲斐のある、楽しい仕事になると思うのですが」 「由佳里お姉さま……」  君枝と初音……いや、その場にいる参加者全てから見詰められて、由佳里はため息を吐いた。 「……まりやお姉さまにも云われた、あたし、損な性分だって」  そう云って由佳里は肩を竦める。 「でも、こうも云われた……『やりたいようにやんなさい。楽しんだモン勝ちなんだ』って……悔しいけど、今、ちょっとでも『面白そうかも』って思った……あたしの負けね」 「お姉さま……!」 「ね、可奈子……あなた本当に、私が陸上部も兼任できるようにしてくれる?」 「……それは、姉に変わって私が保証します。面白そうですし」  由佳里の言葉に、何故か妹の沙世子が笑みを返す。 「わ、沙世ちゃんが保証するなら、私がおっけ〜するまでもないなぁ……」 「一体、あなた達姉妹は何者なのよ……」  由佳里は呆れた。だが、自分が段々と楽しくなってきているのも感じていた。 「……決まりね。本当に良かったわ」  そう云って君枝が嬉しそうに笑い出す……その瞬間に、君枝が実は最初から自分にしか狙いを定めていなかったことに気付いた。つまり、他のメンバーは囮だったのだ……道理で他の部やクラブの要職者が集められているはずだ……。 「では皆さん……未来の新会長に、惜しみないエールをお願い致します」  君枝の一言で、部屋には拍手が溢れた……そしてこの瞬間、長い恵泉女学院の歴史はまた一歩未来へと歩みを進めていくのだ……今までそうして来たように。  ———そして、これからも。 [#改ページ]  あとがき[#底本では横書き]  …えっと、あとがきです。って、新井素子か私は(笑) どうも、嵩夜あやです。えー、人生初の小説本、人生初の自分で自分の二次創作……ある意味初めてづくしで大変おめでたい本です(苦笑)  取り敢えずこの本をご覧になっていると云うことは、拙作「処女はお姉さまに恋してる」を買った/プレイした方ということで、本当にどうもありがとうございました。ぶっちゃけた話、こんなに売れると思っていなかったので、ありがたいやら困惑するやら、原作者としては心中かなり複雑です(笑) そんなわけで、お礼の意味も込めまして……こんな本を作ってみました。私自身もかなり肩の力を抜いて書いてしまっているので、あまり面白い話ではないかも知れませんが、良かったらご笑納してやって下さいませ。  あの…同人なので、これがつまらないからと云って会社にメール送らないで下さいね〜個人発行物ですので…(笑) この小説のタイトルは「おとボク」のタイトル候補のひとつをそのまま使いました。でも、今になってみると「おとボク」というのが、いかに優れたタイトルなのかが解りますね。読みにくいという問題は確かにありますが、どんなゲームなのかが一発で解るというその一点に於いて、その実用性は計り知れないものがあります(笑)  今回は、あまり需要がないであろう「瑞穂が卒業した後の恵泉の様子」をテーマにして書きました。瑞穂が居ないだけで、中身がすっかりマ○みて臭くなってしまうのは、女学院だからどうしようもないって感じでしょうか(笑) 折角なので、本の装丁をコバ○トっぽくしてみました…いかがでしょうか?(笑)  お話しの方は、貴子ルートの後と云うことになっています。葉子が会長になっているよりも、君枝が会長の方が面白いですからね(笑) 短く端折り気味に書いてありますので、色々と想像力を働かせて好きなように補完して楽しんで頂けると良いかと思います。奏は「なのですよ」を克服したので(笑) 本音で出てくる「なのですよ」は普通のニュアンスのものです…。それから、フェンシングに詳しい方、ごめんなさい(笑) この後話は次年の奏エルダー選挙に続き、卒業式…その次は薫子…と、どんどんマ○みて方式に引き継げるようになっていますが、このお話は瑞穂が居てなんぼの世界なのでそんな事をしても無駄無駄…っていう感じです(笑) 薫子がエルダーになった時に、まりやのいとこ♂が転入してきて…っていうのもちょっと考えたんですが、何だかそれも今ひとつなのでそんなネタもあったのよって程度でひとつ…あと頁数の都合で「楓さん物語」入りませんでした…無念です(笑) 小説同人はお金掛かりますね(汗)  最後になりますが、私自身はこの後は泣かず飛ばずを予定しております(笑) ゲームをお買い求めになる時は、必ず体験版をプレイしてからにしましょうね(問題発言) それでは、「おとボク」を楽しんで下さった皆さんに、満腔の感謝を込めまして……。ありがとうございました。 [#地付き]嵩夜あや 拝   [#改ページ] 底本:「処女はお姉さまに恋してる 櫻の園のエトワール」八王子パルサー    2005(平成17)年09月11日第01別発行 入力:TJMO 校正:TJMO 2006年06月08日作成